リー・クアンユーのプロフィールを説明
リー・クアンユーとは、初代のシンガポール首相のこと。英語表記では「Lee Kuan Yew」。中国語表記では「李光耀」。生年月日は1923年9月16日生まれ。没年は2015年3月23日。華人4世。
開発独裁による功罪
1959年以降、約30年間に渡って独裁政権を築いてきた。いわゆる「開発独裁」を押し進めシンガポールを経済的に発展させたが、一方で言論弾圧や表現の自由を制限するなど批判も多い。現在のシンガポールにおいても、政府に批判的な一般人のブロガーや欧米メディアに対して司法的な圧力をかけることはザラである。そのため世界の報道自由度ランキング(2015年)においては、180カ国中153位と下位に低迷している。
ちなみに日本の報道の自由度ランキングは61位と、安倍政権以降は下がり続けている。
家族
妻はクワ・ゲオ・チュー。1950年9月30日に結婚。長男のリー・シェンロンは、三代目のシンガポール首相。次男のリー・シェンヤンは、シンガポール・テレコミュニケーションズのCEOなどを務める。2015年現在はシンガポール民間航空庁の顧問。
略歴
1942年、シンガポールが日本軍によって武力支配される。1943年から1944年、語学力の高さを評価され連合国の通信を盗聴した内容を翻訳するスパイ業務に従事。日本が敗戦後、1945年にイギリスによる植民地が再開するものの、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。そして1954年11月21日、のちの一党独裁体制を築く人民行動党を創設。1959年6月1日の総選挙では、全51議席中43議席を獲得。そしてシンガポールの初代首相に就任。1990年に至るまで約30年間首相を務め、主にシンガポールの徹底した工業化を図った。その後も上級相として国政運営に強い影響力を与えた。
語録・名言
「シンガポールは資源がなく面積も小さい。だから外国人の観光客や労働者を呼び寄せるか、工業国家になる以外に生きていく道がなかった。つまり資源がないことこそが、ここまでシンガポールが発展できた秘密なんです。」「政治面でアジアが一つにまとまるのは100年経っても不可能だろう。しかし、経済面で一つになる時間は数十年もかからないだろう」
「民衆を喜ばせるには二つの方法がある。1つは満足な衣食住を与えてやること、もう1つは輝かしい未来への展望を与えてやることだ」(1965年のオーストラリア外遊中)
「シンガポールの統治はトランプ遊びといった軽いことではない。一生を懸けて築き上げた国を、私の目の黒いうちは誰にも壊すことはできない」(1980年の国連演説)
「高学歴の女性こそたくさんの赤ちゃんを出産し、国家の出生率を下げないように努力すべきだ」(1983年の建国記念集会)
「たとえ墓に埋葬されたとしても、シンガポールの未来が間違った方向に行こうとすれば私は立ち上がるだろう!(Even if you lower me into my grave, and I feel something is going wrong I WILL GET UP!)」(1988年の建国集会)
「ヨーロッパ型の民主主義は、アジアでは安定した政治成果を残さない」(1990年のシンポジウム)
「ガムを噛まなければ思考できないというなら、バナナでも食べたらいい」(2000年のイギリスBBC放送)
日本に対するスタンス
戦前において、シンガポールは日本に武力支配されたこともあり、色んな面において日本を意識することが強かった。そして経済面では日本の高度成長時代を参考にしたと言われる。しかしながら、過去の戦争における歴史認識では、一貫して日本に対して厳しい評価を下した。「欧米による植民地支配からの解放」といった右翼的主張を死ぬまで認めることはなかった。
チベットに対するスタンス
チベット問題においては実利主義者らしく、「中国はチベットの生活水準を上げた」といった中国側寄りのスタンスを見せていた。またヨーロッパや日本のマスコミ報道に対しては、「チベットにロマンチックな幻想を抱きすぎであり、チベットは単なるヒマラヤとダライ・ラマの土地」でしかないと切り捨てている。
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