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ハリルホジッチの過去とは?

ハリルホジッチの経歴を説明

ハリルホジッチとは、サッカー監督・元サッカー選手のこと。日本ではアギーレの次のサッカー日本代表監督として広く知られる。本名は「Vahid Halilhodžić(ヴァヒドorヴァヒード・ハリルホジッチ)」。


オシムと親友

生年月日は1952年10月15日生まれ。出身地はユーゴスラビア(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)。ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の日本代表監督はオシム以来。ただし、ハリルホリッジの国籍は現在フランス国籍である。

選手時代のポジションはフォワードで、攻撃的なサッカースタイルを好むとされる。

サッカー選手として

1952年、ボスニア・ヘルツェゴビナのジャブラニカに生まれる。その後、16歳からユーゴスラビアリーグのヴェレジュ・モスタルのアカデミー(ユースチーム)に在籍。フォーワード(ストライカー)として頭角を現す。およそ10年の在籍で207試合中103ゴールを決める。

その後、1981年からはフランスのFCナントへ移籍。およそ5年の在籍で163試合で92ゴールをチョウさん。得点王に二度輝く。そして1986年に名門パリ・サンジェルマンに移籍。18試合で8ゴールを決め、そこで選手生命を終える。

またユーゴスラビア代表としては、32試合8ゴールを決めた。1976年から1985年まで活躍し、1982年にはワールドカップ出場を果たす。

監督としての

1997年からモロッコリーグのラジャ・カサブランカで監督として指揮をとる。国内リーグを2連覇。アフリカチャンピオンズリーグでチャンピオンに輝く。

1998年からはフランス二部リーグのリールOSCで指揮を執る。翌年に一部昇格を果たす。その翌々年には昇格一年目でリーグ3位で終え、年間最優秀監督に選ばれる。その後はスタッド・レンヌ→パリ・サンジェルマン→トラブゾンスポル→アル・イテハドと渡り歩く。

そして2008年からはコートジボワール代表の監督を歴任。ただグループリーグ敗退で、ワールドカップ出場は果たせず。アフリカネイションズカップでも結果は振るわず、2010年に同監督を解任される。しかし、その年に就任したクロアチアリーグのディナモ・ザグレブではリーグ優勝を果たす。

2011年からは再びナショナルチームの監督に就任。アルジェリア代表では2014ブラジルワールドカップではベスト16まで躍進させた。FIFAランキングを50位台から10位台にまで引き上げた。

ハリルJAPAN

2015年3月、解任されたアギーレの跡をつぎ、日本代表監督に就任。愛称は最初の三文字を取って「ハリルJAPAN」。契約金は200万ユーロ(当時のレートで2億5600万円)という破格の金額。

当時の日本サッカー協会・専務理事である原博実は「専門機関に調査を依頼して素行調査・身辺調査などはバッチリ行った」と語った。そして、その上で「真面目さ・勤勉さ・手を抜かない」という点で太鼓判を押した。

選手たちには球際の強さやハードワークを強く求めた。またボールタッチ数の制限を練習で選手たちに課すなど、ボールを保持していない時の動き「オフ・ザ・ボール」を重要視。「アン・ドゥ・パス」の掛け声がピッチに響いた。日本チームに足りない高速カウンターも強化させた。

初試合

ハリルホリッジ指揮による初試合は、2015年3月27日のキリンチャレンジカップにおけるチュニジア戦。

本田圭佑や香川真司をスタメンから外すなど、一見すると驚きの采配をした。当時ガンバ大阪に所属していた宇佐美貴史が初出場。1点目は岡崎慎司がヘッドでゴール、2点目は本田圭佑。結果としては2-0で日本代表が勝利をおさめて、幸先が良いスタートを切った。
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