古河太四郎(ふるかわたしろう)のプロフィールを説明
古河太四郎とは、日本の教育者のこと。1800年代後半に視覚・聴覚障害者教育のために活動した。出身地は京都府。生年月日は1845年3月27日。没年月日は1907年12月26日。生誕170周年にあたる2015年3月27日には、グーグル検索において彼の誕生を祝福したバナー画像が表示された。
盲学校・聾学校を設立
1878年に後の京都盲唖院となる仮盲唖院を設立。1882年には同院の院長となる。京都盲唖院は現在の京都府立盲学校と京都府立聾学校の前身。1900年には大阪盲唖院の院長となる。「ろうあ者は自由に行動すべきである」「ろうあ者が教育を受けられないということは教育をしない者の責任(東京人権啓発企業連絡会)」というモットーのもと、目に障害を負った人や耳に障害を負った人、またその両方に障害を負った人のために、教育の普及に尽力した。
また紅葉狩りの名所・観光地としても知られる『紅葉谷公園』の池を作った人物でもある。
日本手話の原型を作ったパイオニア
小学校の算術教師だった1875年に、聾唖者だった生徒が手話で会話している場面から着想を得て、日本手話の原型となる「手勢(しかた)法」を考案し、体系的にまとめたとされる。あくまで指導用・教授用のために考案したものだったが、現在では聾唖者が会話のために使っている。こういった功績から、没後30年の1937年にヘレン・ケラーが京都盲唖院に訪れたこともある。
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